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レールモントフ画「グルジアの関所」(1838年) 19世紀後半から20世紀にかけて、ヨーロッパに広がったロシア曲に「コサック の子守歌」 (КАЗАЧЬЯ КОЛЫБЕ ЛЬНАЯ ПЕСНЯ)がある。 【歌詞】 この歌は、19世紀半ばに北コーカサスのテレク川流域のコサック村で採譜され たものが元になっている。メロディと歌詞を採譜 し、最初に曲としてまとめたのは若き詩人で帝政ロシア軍騎兵将校であったミハ イル・ユリイェウ゛ィッチ・レールモントフ(1814−1841)である。 テレク地方とは、テレク川に沿った地方を指す。テレク川は地図に示すように グルジアの北はずれ、オセチア地方から発し北コーカサス地方を二分しながらカ スピ海に注ぐ。川に沿ってロシア中央部から流れてきたコサック たちが集落を築き、現地人の一部とも同化して帝政ロシア政府に忠誠を誓った屯 田兵として勢力版図を拡大していった。これらのコサックたちはテレク・コサッ クと呼ばれ、周辺部族との絶え間ない戦闘で精強な騎兵集団へと成長していった。 |
テレク川は北コーカサスを二分してカスピ海に注ぐ 【北洋艦隊アンサンブル「さらば、岩山よ」/1983年、mp3録音】テレク川の右岸(東側)には、ロシア勢力の拡張に反発して激しく抵抗するイ ングーシ人、チェチェン人の生活圏があり、さらにその向こうにはダゲスタンが ある。これらの諸族はコーカサス山脈の南側のイスラム圏から強い影響を受けて おり、ロシア正教を宗教的旗印とするロシア・コサック勢力と根深い対立が続い た。いや、今も続いているべきと言おうか。コーカサス地方は、1800年頃にはロ シア勢力下に入ったのだが、各部族の激しい抵抗で19世紀いっぱい紛争が延々と 続き、20世紀以降も何かにつけ“反ロシア”紛争が再燃した。 その紛争の最前線 に立つテレク・コサックたちの子守歌に「恐ろしいチェチェン人」が登場 するのは、いまなお尾をひいているチェチェン紛争の歴史的・情念的な根深さと 執拗さを物語るものだ。 【「コサックの子守歌」ロシア語歌詞と解説/ロシアサイト「ピェスニ」より】 ところで、19世紀はロマノフ王朝下のロシア帝国が隆盛をきわめた時期だっ た。既に1600年代までに極東シベリア地方にまで版図を広げ、ヨーロッパでも現 在のフィンランド、ポーランドまでは併呑し、1812〜14年のナポレオン戦争にも 勝利して以降はヨーロッパ最大の大国として君臨した。 しかし、コーカサス地方は背後のトルコ帝国やイスラム圏の後押しも受けた少 数民族が引き続き帝政ロシアに粘り強く抵抗し、ロシア政府の官僚や貴族たちか ら「辺境地区」と呼ばれ、その地域への赴任は一種の左遷として嫌われた。ロシ ア帝国の「忘れられた地域」だったのである。その一方で、帝政ロシア政府は、 コサックの流入と軍事組織への再編に取り組み、現地部族平定を長い目で進めて いった。 |
ミハイル・ユリイェヴィッチ・レールモントフ(1814-1841) 詩人・青年将校だったレールモントフは、スコットランド家系の貴族で彼自身 は教養豊かな家庭環境でさまざまな才能を花開かせていた。士官学校を出た後、 モスクワ近衛竜騎兵連隊に配属された彼は、絵画、詩作、音楽でも才能を発揮 し、特に詩人として文壇で名をなすに至った。しかし、若さと情熱は保守的な環 境への反発につながり、革新的な詩人プーシキンに傾倒して、その決闘死を悼む 詩を発表したことで帝政当局からにらまれることになった。 23歳の近衛騎兵中尉は、誰もがいやがる「辺境地区」の北コーカサス防衛軍所 属コサック騎兵連隊に配属されることになった。明白な左遷である。 勇猛果敢なスコットランドの血がそうさせるのか、自らをこうした境遇に追い 込む体制へのあきらめか、北コーカサス配属後のレールモントフはまるで死に場 所を求めるような戦いぶりで作戦に従事したという。しかし、そうした遠征や戦 いの合間に、詩作や油彩画などをたしなみ、いくつもの作品を残している。 勇敢だが精神が自由な自立農民集団でもあるテレク・コサックたちを、戦いを 通じてこよなく愛するようになったレールモントフは、コサック文化というべき ものに着目した。「コサックの子守歌」は、テレク河畔のコサック村のひとつで 耳にしたものを彼がまとめたもので、土着のコサック民謡が元になった作品である。 レールモントフがまとめた哀しげなこの曲は、モスクワの友人たちの手で演奏 されるようになり、やがて国内はもとより外国の演奏家たちも着目するように なった。その中でこよなくこの歌を愛し、1865年に自分向けにメロディを編曲し 直したフランスの女性歌手・作曲家ポリーナ・ビアルド‐ガルシア(1821-1910) がいる。母国語の他にロシア語、イタリア語、ドイツ語等を自在にあやつる彼女 は、ヨーロッパ各地で「コサックの子守歌」を唄い広めた。 |
ポィーナ・ビアルド‐ガルシア(1821-1910) 彼女の他にもこの曲を愛し、独自のアレンジをした作曲家・演奏家は50人以上 にのぼり、結果として「コサックの子守歌」は50以上のバージョンが伝えられて いる。いずれも、歌詞はレールモントフがまとめたものを用いているのだが。 「辺境地区」の口承民謡は、こうして世界で広く知られていくようになったのだ。 「コサックの子守歌」の歌詞のつづきは、次のようなものだ。 …… |
ロシア騎兵の抜刀突撃(独ソ戦時) コサックの男は例外なく、3歳から馬に乗り10代も終わりになれば大人たちと 一緒に騎兵中隊(エスカドゥリヤ)に組み入れられる。有事となれば、軍服を着 て剣と槍と銃を持ち、自分の乗りなれた馬で出征するのだ。旅立ちを清めるた め、1杯のウォトカをあおり、母や姉妹、妻にキスして仲間と口笛をならしなが ら、騎乗隊伍を組んで出ていく…。 生まれた時から赤子の死を予感する母の口にする歌の哀しさ…「コサックの子 守歌」が多くの人の心を打つのは、常に”最前線“で暮らすテレク・コサックたち の情念がこもっているからだろうか。その情念に詩人レールモントフの純粋な心 が反応し、口承民謡をより洗練した形で紡ぎ出したのだろう。 勇敢な騎兵将校レールモントフは時に蛮勇をふるって戦ったが、戦場で散るこ とはなかった。些細な理由で同僚将校と決闘し、拳銃弾に斃れたのだ。自らが傾 倒した偉大な詩人プーシキンの如く。わずか26歳の命を決闘で散らしたレールモ ントフも、ロシアの人々の間では世代を超えて偉大な詩人のひとりとして記憶さ れている。 |
赤軍コサック騎兵部隊の女性衛生兵(1942年) |