戦争・軍事 > 戦争と音楽の深い関係|戦史研究家のロシア名曲鑑

死線を超えた前線特派員の詩作から生まれた名曲 
「壕舎にて」(В землянке)

戦史研究家のロシア名曲鑑12
(戦史研究家&ロシア歌曲歌手・ミハイル・フルンゼ


モスクワ近郊の町イストラを攻撃するドイツ戦車部隊(1941年11月25日)

 …1941年11月下旬、寒さが本格化し氷雪で大地や集落が凍りついたモスクワ近 郊では、ややグロッキー気味となりながらもドイツ機甲部隊が“赤色の首都”を攻 略すべく全力で攻勢をかけていた。9月末以来の大規模な攻防戦に双方合計で100 万人を超える兵力をつぎ込んだ独ソ両軍とも消耗し、「戦いは最後の一個大隊で 決まる」というような、“のるか、そるか”の局面であった。背後すぐに首都を控 えた町イストラへは、北部のレニングラード戦線から引き抜かれて投入されたド イツ第10装甲師団が攻撃を継続し、ソ連軍は苦戦していた。

 独ソ開戦から5か月を経て、ソ連の国運がかかる激戦の場では、多くの詩人や 作家が前線特派員として戦線の軍部隊に派遣され、将兵、国民を鼓舞すべく記事 や作品執筆をつづけていた。ここイストラでも、特派員たちは部隊から部隊へ、 指揮官たちのもとへと訪問して廻り、戦いの厳しさを共にしていた。

詩人スルコフ

【北洋艦隊アンサンブル「さらば、岩山よ」/1983年、mp3録音】

 詩人のアレクセイ・アレクサンドロヴィッチ・スルコフ(1899-1983)がモスクワ防衛正面の西部方 面軍機関紙「クラスノアルメイスカヤ・プラウダ」(赤軍プラウダ紙)特派員として、イストラで ドイツ軍攻勢を支えていた赤軍第9狙撃師団を訪れていたのは、同年11月24日で あった。他にもカメラマン、画家なども同行していて重要な局面を迎えたイスト ラ防衛戦を取材し将兵を鼓舞する記事を作成するためだった。

 「あれは、第258狙撃連隊の指揮所に着いた時だった。我々が到着したとたん に指揮所の置かれた村へ次々と迫撃砲弾が落下し、炸裂の爆炎の向こうからこち らへドイツ歩兵が攻撃前進してきた。連隊長や参謀、護衛小隊の兵士たちと共 に、我々特派員も掩蔽壕に飛び込まざるを得なかった」(スルコフの回想より)

戦場カメラマン、ミハイル・サヴィン

 連隊司令部メンバーから特派員たちまで、サブマシンガンや小銃、拳銃で懸命にドイツ 軍に反撃したが、とうとうドイツ兵たちは司令部を部隊から切り離して包囲する ことに成功した。掩蔽壕のすぐ近くにある家屋にドイツ兵は入り込んで、窓から 盛んに銃火を浴びせてくる。戦闘はほぼ4日間続いた。意を決した指揮所護衛隊 長のヴェリーチキン大尉は、「包囲を突破して、川向うの友軍に合流するぞ!」と叫んだ。

 「…敵兵の立てこもる小屋の方へ、ヴェリーチキン大尉は這いずって行った。そし て、敵が小銃を撃ちかけてくる窓辺に向けて、束ねた手榴弾を投げつけた。爆発 の轟音の後、ひるんだドイツ兵たちの隙をついて、我々は半分凍った川に向かっ て走った。そして、氷の塊を伝いながら川を渡っていったのだ。態勢を立て直し たドイツ軍が迫撃砲で撃ってきて、ヨチヨチと氷から氷へと歩く我々の周りに炸 裂の水柱が立った。だが、何とか我々は川向うの友軍の塹壕に飛び込むことができた」(同)

 11月27日のことだったと、スルコフは回想している。友軍陣地にたどり着いた連隊 司令部メンバーと特派員たちは、小さい簡易ストーブで温められたゼムリャンカ(半地下式 の壕舎)に通され、麦入りのスープをふるまわれた。4日間、不眠で戦い続けたヴェリーチキン大尉は、スープを2匙、口に入れるとそのまま寝込んでしまった。

 「誰かが、アコーディオンを弾きはじめた。私は眠った大尉の横で、真っ赤に焼けた 簡易ストーブを眺めながら妻に捧げる16行詩を書き始めた。…小さなストーブの 火が 爆ぜるまきから浮き出る脂は まるで涙のよう…」(同)

 特派員スルコフが死線を超えて一息ついた戦場のゼムリャンカの中で、妻に宛てて書い た詩は1942年に発表された名曲「壕舎にて」(В землянке)になってソ連国 民、将兵たちに広く唄われ、愛されるようになった。

【レオニード・ウチョーソフ「壕舎にて」/1942年、mp3録音】

(歌詞)「壕舎にて」

小さなストーブの 火が爆ぜる 
まきから浮き出る脂(ヤニ)は まるで涙のよう
壕舎の中で アコーディオンが 僕に唄いかける
君の笑い顔や 瞳のことを

藪の中から 君のささやき声が聞こえるようだ
この白い雪で覆われた モスクワ郊外の野原で
君に 聞いてもらえたら いいんだけど
さびしげに生きている 僕の声を

君は いまは遠く 遠く
僕らの間には 雪また雪
君のところへ行くのは たやすくないけれど
死までは たったの4歩

唄え、アコーディオンよ 吹雪にあてつけてやれ
迷子になった幸せを 呼び戻しておくれ
冷たい壕舎の中でも 僕は暖かい
君への愛が この身に満ちているから

 この曲の作曲も、戦場で行われた。スルコフと戦前期から交友関係のあった作曲家 コンスタンチン・ヤコヴレヴィッチ・リストフ(1900-1983)は、1942年初め頃にレニングラード近郊で前 線取材と創作活動(持参したギターで作曲するのだ)をしていた。リストフは、ようや くドイツ軍の進攻を一時食い止め、勝利への希望を見出し始めることができた戦 争最初の冬にふさわしい歌曲を作りたいと思った。そこで、司令部に頼んで野戦 電話で西部方面軍で活動する詩人スルコフに連絡をとった。

「やあ、アリョーシャ! 何か今の状況で曲につけるのに相応しい詩はないのかね?」 ―電話向こうからリストフに問いかけられたスルコフは、こう答えた。「前線で妻に宛て て書いた16行詩があるから、見てみるかい?」

 スルコフの取材手帳に書きつけられた16行詩は、軍通信官により電信暗号でリストフの いる司令部に向けて打電された。電文を見たリストフは、研ぎ澄まされた詩に心打た れ、さっそくギターを使って曲をつけた。完成すると、同道していたギターの名手で もあるタス通信の前線カメラマン、ミハイル・イヴァノヴィッチ・サヴィン(1915-2006)に特派員仲間 を集めた場で最初の“弾き語り演奏”をさせた。喝采を得たのはいうまでもない。

 ”最初の唄い手“サヴィンは曲をいたく気に入り、自分もメンバーだった全ソ・レーニ ン共産主義青年同盟の機関紙「コムソモリスカヤ・プラウダ」に歌詞と譜面を掲載するよう はたらきかけた。同紙は、1942年3月25日付で「壕舎にて」を発表。曲はまたた く間に人気を得て、著名なロシア民謡歌手リディア・ルスラーノヴァや俳優で歌手のレオニード・ウチョーソフの重要レパートリーとなった。

 だが、何よりもこの曲が人気を得たのは、前線将兵の間であった。1942年秋か ら43年冬にかけて激戦が展開されたスターリングラード戦線では、戦闘の合間、小さな 焚火を起こして暖をとるロシア兵たちが好んで唄った。「この白い雪で覆われた  モスクワ郊外の野原で」という部分を「この白い雪で覆われた スターリングラード 郊外の野原で」と読み替えて…。

 この歌について、例の如く赤軍政治部の共産党官僚たちからは「いったいなん なんだ? 『死までは たったの4歩』なんて! そんなに赤軍兵士たちは臆病 なのか!」と怒りの声があがらぬでもなかった。しかし、この歌を気に入った将 兵たちは、そんな雑音を聞く耳を持たなかった。

雪の中の反撃(1941年)

 「死まで たったの4歩! そうだよなあ、俺たち…」−そう語り合いなが ら、わずかな煙草と黒パンを分け合って不幸な運命を嘆くロシア兵たちが唄った のが、「壕舎の中で」なのだ。カトケン殿が1990年代にチェチェンで出会ったロシア兵 と、まったく変わらないね! 戦意よりも運命へのあきらめと胸に秘めた愛で戦 うロシア軍…

【赤軍合唱団・イェフゲニー・ベリヤーエフ「壕舎にて」/1970年、mp3録音】

※この稿は、ことしの3月11日の東日本大震災で受けた打撃を乗り越えながら、歌 の力で仲間とまわりの人々を勇気づけ、活動を発展させ続けてロシアとの友好の 懸け橋まで生み出している仙台ロシア合唱団の団長スケさんに捧げます。

※歌詞

В  землянке

Бьется в тесной печурке огонь,

На поленьях смола, как слеза
И поет мне в землянке гармонь
Про улыбку твою и глаза.

О тебе мне шептали кусты
В белоснежных полях под Москвой.
Я хочу, чтобы слышала ты,
Как тоскует мой голос живой.

Ты сейчас далеко, далеко,
Между нами снега и снега.
До тебя мне дойти не легко,
А до смерти - четыре шага.

Пой, гармоника, вьюге назло,
Заплутавшее счастье зови.
Мне в холодной землянке тепло
От моей негасимой любви.