戦争・軍事 > 戦争と音楽の深い関係|戦史研究家のロシア名曲鑑

北極圏に斃れたロシア水兵賛歌―「さらば、岩山よ」(Прощайте, скалистые горы)

戦史研究家のロシア名曲鑑11
(戦史研究家&ロシア歌曲歌手・ミハイル・フルンゼ


出撃する北洋艦隊(1944)



 50年くらい前から、日本の「うたごえ運動」で唄われ続けてきたものに、次の
ような船乗りの歌がある。

♪♪♪
さらばわがふるさと さらば岩山よ
遠く海原さし いでゆくわが友
舟は木の葉のごと 波はあれくるう
遠くかすむわがふるさと
夜ぎりにきえゆく
【リフレイン】
 遠くかすむわがふるさと
 夜ぎりにきえゆく

(中略)

遠く広き海に 幸をもとめゆく
あふれる収穫に 舟あしもかるく
さか巻く波をこえ 帰りくる友を
幸にみちる わがふるさと
よろこびをむかえる
【リフレイン】
 幸にみちる わがふるさと
よろこびをむかえる
♪♪♪
※ジャルコフスキー曲、合唱団白樺訳、「さらば岩山よ」

【ユーリー・グリャーエフ「さらば、岩山よ」/1980年代、YouTube映像】
http://www.youtube.com/watch?v=wjWVadMREDI

 この歌の解説として、「ロシア民謡歌集」にはこんな記載があったと「バー
チャルうたごえ喫茶のび」(http://www.utagoekissa.com/menuRussia.html)の
解説にはある。

「激しい波風にも仕事をやり遂げ、ふるさとに帰ってくる若者の喜びを叙情的な
メロディにのせて静かに歌っています」−訳詞から察するに、漁労の航海のすえ
に帰還する船乗りの歌であるかのようだ。

 しかし、原曲「さらば、岩山よ」(Прощайте, скалистые горы)の歌詞を直訳
すると、次のような内容である。

♪♪♪
さらば、岩山よ
祖国が 献身を求める
遠き広き 海原で
激しく 戦いつづける われら
波はうめき、泣き続け船べりを叩く
ルィバチー半島は 霧の彼方
わが ふるさとの土地よ

(中略)

重き 船乗りの責務
敵に向かう われら
勝利の英雄と なれたなら
岩山の岸辺に 戻れるだろう
波よ うめき 泣き叫べ
船べりを 叩くがいい
きっと わがふるさと ルィバチー半島は
英雄を 祝福と共に 迎えてくれる
♪♪♪

 正真正銘、戦いの歌である。ちなみにルィバチー半島とは、ロシア語で「漁師
の半島」という意味だ。そこから類推して、漁労の歌になったのか? いや、
「献身(犠牲)」(На подвиг)だの「勝利」(победой)だの「英雄」
(героев)という言葉が散りばめられた歌詞が、平和な漁労の様子を描いた歌と
受け止められるのはおかしいと思うのだが…。

 この歌は、1942年、ソ連北洋艦隊アンサンブルのピアニストであるイェフゲニー・エン
マヌイロウ゛ィッチ・ジャルコフスキー(1906-1985)の作曲、ニコライ・イウ゛ァノウ゛ィッチ・ブーキン
(1916-1996)の作詞で創作されたものだ。テーマは、北極圏に入りながら不凍
港としてヨーロッパへの玄関口だったムルマンスク港を守るソ連北洋艦隊の将兵
を称えることである。
ニコライ・ブーキン(1916−1996)


【北洋艦隊アンサンブル「さらば、岩山よ」/1983年、mp3録音】

1941年6月22日の独ソ開戦後、不意を突かれたソ連は重大な敗北を重ねた。秋口
までにウクライナの首都キエフは陥落させられ、レニングラードはフィンランド
軍とドイツ軍によって包囲下に、モスクワも門前にドイツ機甲部隊が迫るという
危機的状況。武器も兵隊も足りず「風前の灯」になりかかったソ連・スターリン
政権に救いの手を差し伸べたのは、かつての宿敵チャーチル首相が率いる英国
だった。

英国は7月にソ連と相互援助協定を締結。8月から、甚大な補給船団の損失を省み
ず、ドイツ軍に占領されたノルウェイ沖をかすめてムルマンスク港へ向けた援ソ船団
(PQ船団)を差し向けるようになったのだ。航路は常にドイツ空軍機やドイツ海
軍のUボート(潜水艦)、更にはグナイゼナウやシャルンホルストといった精鋭
戦闘艦によって脅かされた。しかし、護衛にあたった英国海軍艦艇とソ連北洋艦
隊は、海軍戦史上まれにみる奮戦で大きな犠牲を出しながらも補給路を守り抜いた。

それどころか、ムルマンスク近くのポリャールヌィ軍港を基地としたソ連北洋艦隊は潜水艦や
魚雷艇をすぐ近くのフィンランド領ペッツァモ港沖に出撃させ、ここからドイツに向
けて希少金属であるニッケルを積みだす輸送船団にしばしば大損害を与えた。激
怒したヒトラーは、ノルウェイに駐屯するドイツ第19山岳軍団(2個師団)をバレ
ンツ海に面したソ連―フィンランド国境に進出させ、ムルマンスク攻略を厳命したのである。

 地図を見て欲しい。ほぼ水平な海岸線の中で、左寄りに突き出た半島がルィバ
チー半島だ。この半島より左側10数キロがフィンランド国境、そこから更に少し
進めばノルウェイ領である。半島付け根より右へ20数キロほどの河口部を更に10
数キロほどさかのぼると、鉄道路線が内陸に敷かれた不凍港ムルマンスクだ。
ルィバチ半島とムルマンスク



 これらの地域は北極圏に属し、ほとんどが岩と苔、低木しかない荒れ地。その
中で海に突き出たルィバチー半島がまるで盾のような役割を果たしていることが
見てとれるだろうか? そう、事実この半島はほとんど隠れるところのない崖と
荒れ地しかないのに、北洋艦隊から分遣されたソ連海軍歩兵部隊が陣取り、ドイ
ツ山岳兵を相手に死闘を繰り返したのだ。

 ドイツ側は戦車部隊や空軍の支援を受け、何度もソ連水兵たちに大損害を与え
た。しかし、夜のうちに海から上陸したソ連水兵たちは岩に掘った陣地を頑強に
守り、時には逆襲に転じてドイツ兵と掴み合いの白兵戦を演じた。ルィバチー半
島をめぐる戦闘は、1941年8月からその年いっぱいまで続いたが、とうとうドイ
ツ軍は半島を制圧できず、その先にあるムルマンスクを攻略することはできなかったの
である。

 ソ連海軍歩兵部隊の中の砲兵隊指揮官、後に政治委員を務めたニコライ・ブー
キンは、この戦いの生き残りである。ルィバチー半島の戦いには1万5,000名のソ
連将兵が投入されたが、生き残りはわずか22名だった。彼はそのうちの一人だ。

 貴い犠牲だが、戦争の中では価値あるものだった。ムルマンスクを通じて英国から運
び込まれた戦闘機、戦車、火器、食糧はモスクワやレニングラードを守るソ連将
兵のもとに届けられ、辛くも首の皮1枚のところでソ連敗北を阻止する力となっ
たのである。

よく、「ソ連の軍事経済は巨大であり、米英からの援助は戦争勝利にわずかしか
貢献していない」とする見解が(特にソ連時代から)あるが、それはウラル山脈
以東で大軍需工場が操業を始めた1943年以降のことだ。軍需工場が軒並み閉鎖・
移転中で武器弾薬の補給がままならなかった1941年後半から1942年半ばまでに届
いた米英からの兵器や物資は、ソ連が戦線を支える上で欠かせないものだったの
だ。それだけに、援ソ航路を守り抜いたソ連北洋艦隊将兵の勝利への貢献は絶大
なものがあるといえる。
海軍歩兵の突撃


 「さらば、岩山よ」は、激戦の地であるルィバチー半島の名と死んでいった勇
敢なソ連水兵たちの偉業を記念して創作された。流麗なメロディは、いまも多く
のロシア国民に愛され続け、現在も活動するロシア北洋艦隊歌と踊りのアンサン
ブルの重要レパートリーとなっている。バレンツ海の激しい波風で翻弄される艦
艇、前途の厳しい戦い…日本でもこの曲に込められた思いを知って、味わっても
らいたいものだ。

【ピョートル・クリチェク「さらば、岩山よ」/1945年、mp3録音】